POPであることには責任が伴う。
誰が言ったか、そういう言葉があるらしい。
あったらいいな、と思ってGoogle大先生に伺ってみた。
まるでヒットしない。
これではこの書き出しが成立しない。どうなっているのだ。たまったもんじゃないよ。
POPであることには責任が伴う。
そういったのは誰だったか。
金持ちの戯言は金言で通るといったのは、ギリシアーのソクラテス大先生である。
その提言に沿って考えると、
ボブディランが『POPであることには責任が伴う。友よ答えは風の中だ』
というのと。
林’sが『POPであることには責任が伴う。you know?』
というのはでは、同じセリフを吐いているのに信憑性がまるで違うという事である。
後者、誰やねん。って話である。
つーかボブディランがそもそもPOPについて語るか?ということである。
実績の問題よね。
実行、実現してきた価値にのみ宿る信憑性がある。
言葉はいつも遠回り空回り風に乗って消えちまう、わけっす。
閑話休題
POPであることには責任が伴う。you know?
POPであること、つまり大衆性が伴う事には、必ず客体、第三者の存在がある。
一人では大衆性というものは生じようがないわけである。
二人以上の存在からなる社会性を帯びた現象、まさしくそれがPOPの根底である。
人と関わり合い、影響を及ぼしあう。良くも悪くも。
それによって構築される人格もある。一般的な人間関係がすでにそうである。
小さな言葉に傷ついて、それに対してトラウマを抱いちゃって、一生それに怯えながら棺桶に入ることもあるかもしれない。
傷つけたヤロウは罪に問われないのか?
その行動に対する責任というのはないのか?
それに責任を感じることができるのか、どうなのか、個人差はあるかもしれない。
しかしながら、そういったものに対して責任を持つ、という精神がベースにあって、道徳や法律という存在がある。
責任の存在を感じることができれば、主体と客体の間だけでも、大いなる責任のやり取りが発生するわけである。
それが二人ではなく三人、三人でなく十人、さらにはファンとの関係性みたいな規模になったら何万人規模の話である。
POPスターと、それに付随する人々の関係性だけで、尋常ではない責任が発生するというものである。
POPであることには責任を伴う。
責任を果たすということは、おそらくその関係性の中で要求されている契約を互いに果たすということであろう。
それを満たすことでPOPを成立していくのであろう。
そもそも、何故こんなことを書いているかといういと。
今月のキタオンの発行がなぜ遅れたのか、というのを、読者諸賢には考えて頂きたいのだ。
6/7 段階で、私以外の筆者のみなさんは記事を書き終えている。
私の記事の欄のみが、圧倒的空欄。まっしろけっけ。
それはそれは怖かった。私の記事ができていないせいで、みなさんの記事も冬眠を余儀なくされている。
背筋が凍りつきました。
この寒気。これこそ責任に対しての背信を自覚している証拠。
有り難い…そして、私は筆をとったわけである。
POPであることには責任が伴う。
いや、ここまでくれば何も取り繕うことはあるまい。はっきりと責任に向き合うときはきた。
執筆遅くなりまして大変申し訳ありませんでした。
※ライブ情報だけ、よろしくお願いします。すいません。
==================================
6/21(sat)
"INYOURPOCKET2014#3”
open 16:00 /start 16:30
\2000 / \2500
※別途ドリンクチャージ\500
ローソンチケット【L-18827】
※4/12発売
act:
岩瀬敬吾バンド
(岩瀬敬吾/G.サンノヘシゲカズ【cruyff in the bedroom】/Dr.溝渕ケンイチロウ【ザ・カスタネッツ】)
w) KGSS ON THE PEAKS
FLUKE
phonitonica
Falling Lemmings
naked
Buddha In My Room
THEE林'S
まいご
MONOCHROME OMITA
DJ/ ROCK'IN'JECTION
フード出店/ 一灯庵Sunpiazza
http://iwasekeigo.info/iwasekeigo.info/welcome.html
=================================
読者コメント